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ジョセフィーヌの功績

ジョゼフィーヌ

 フランス革命により、ルイ16世、マリー・アントワネットがギロチンの露と消えたあとに台頭してきたのがナポレオンです。ナポレオンは1796年にジョゼフィーヌと結婚しますが、子が出来ないことを理由に1809年に離婚します。が、ジョゼフィーヌは、そのまま居城マルメゾンを与えられて、マルメゾンは当時の社交界のサロンのようであったといわれます。
花好きであったジョゼフィーヌはマルメゾンの庭に多くの植物を集め、とくにバラの収集を熱心に行ったといいます。当時イギリスとフランスは戦争をしていましたが、イギリスで手に入った珍しいバラはこっそりフランスのジョゼフィーヌのもとに送ったという記述があるくらい、当時からジョゼフィーヌの収集は有名であったようです。これは危険分散といい、大事なものは一か所で保存せずにあちこちで栽培して保存を図る、というものだとも思われるし、また研究のためにはジョゼフィーヌに送っておけば安心、という思いもあったのでしょう。
ジョゼフィーヌはバラを集めただけでなく、集めたバラ同士の人工交配も行いました。それにはこの時代の前後に中国から四季咲き性のバラがヨーロッパに導入されたことが大きく影響しているでしょう。
中国からは18世紀の中ごろから19世紀の初めにかけて、4種類の四季咲き性があるバラ、つまりスレイターズ・クリムズン・チャイナ、パーソンズ・ピンク・チャイナ、ヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センテッド・チャイナ、パークス・イエロー・ティー・センテッド・チャイナが導入されます。
それまで香りがよく、大輪ではなやかであったヨーロッパのバラには四季咲き性がなかったため、絶えず咲くバラが紹介されたことは画期的であったことでしょう。
お膳立ての整った庭園で人工交配が行われるようになったことは当然であったのかもしれません。
この頃のバラを知ることができるのが、ピエール・ジョゼフ・ルドゥーテが描いた『バラ図譜』です。
ルドゥーテはマルメゾンへの出入りを許され、ジョゼフィーヌの依頼でマルメゾンのバラを描き、1817年から1824年に『バラ図譜』を出版します。残念ながらジョゼフィーヌは出版を待たず、1814年に肺炎を患い死去してしまいます。その翌年にはナポレオンも失脚します。
ルドゥーテは169種類のバラを描きました。ここには上記の中国からの4種バラはもちろん、ほかのチャイナローズも描かれています。また、それまであったガリカローズ、ダマスクローズ、アルバローズ、ケンティフォリアローズとその変種が多く描かれています。また全体の3分の1以上を占めているのが各地から集めたものであろう野生種です。その中には中東のバラや日本もバラも見ることができます。
が、人工的に交配されたであろう種類はほとんどありません。現在私たちがオールドローズと呼んでいる交配種が多く出回るようになったのはルドゥーテが死んだ1840年以降のことであるのかもしれません。実際オールドローズの作出年を調べてみても、1840年以前に作出されたものはごくわずかです。ルドゥーテはジョゼフィーヌの庇護を受けていたのですから、交配種が出回る直前のバラを描いたのは当然といえるでしょう。
ではこの時代もバラは階級の高い人々の独占の花だったのでしょうか。

コラム寄稿

野村和子(のむら かずこ・バラ文化研究所理事)
京成バラ園芸(株)研究所にて故鈴木省三氏の助手を長年にわたり務め、その後NPOばら文化研究所の立ち上げに携わり理事を就任。同時に千葉市花の美術館の相談員を務める。
著書「オールドローズ花図譜」(小学館)、「オールドローズ」(NHK出版)、「四季の花だより」(千葉市みどりの協会)他。

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